友達を失ったことが、 歓迎すべき喜ばしいことだった、と思う理由と「ヒト」

以下は、
ある時点まで友達だと思っていた、過去の知人との最後の会話。
「W」は、わたしで、
「K」は、過去の知人。

W:「会おうよ」

K:「うーん…」

W:「私のこと、友達として嫌いになったの?」

K:「うーん…」

W:「はっきり言ってよ」

K:「オレは、他人(:ここでは共通の知人を指していた)
を好きになれない人間は、好きになれない」

(↑ わたしがKを友達として好きでも、わたしが他人を好きになれないなら、
Kは、わたしと、絶交したい、という意味)

W:「他人を好きになったら、私を好きになる?」

K:「なれるの?」

W:「今の私の質問はずるいね。二度と連絡しない。貴重な時間をありがとう」

K:「悪いね」

W:「じゃあ」

K:「じゃあ」

***

何かを失った、ということは、
失ったおかげで出来た空き部分に、
新しい何かがこれから訪れる、ということだ。

だから、何かを失う、ということは、
歓迎すべき、喜ばしいことだと思う。

わたしがKに特に感謝している点は、
絶交したい、と、私にはっきり言ってくれたことだ。

わたしがこれまで関わった人の中には、この言葉をはっきり言えない人もいた。
例えば、自分に自信が無い人は、自分に恋愛感情としての好意を寄せる異性に、
この言葉を、はっきり言えない傾向が強かった、と、わたしは思う。

「あなたとは絶交したい」
「あなたとは友達になりたくない」
「あなたのことは嫌いになった」

わたしが出会った人達の中での話になるけど、
これらの言葉を、誠実に、感情的にならずに、はっきり言ってくれた人は、
全員、
本当に素敵な人で、自分に自信がある(ように私には思えた)人だった。

あと、
普段、口数が無駄に多かった(という印象を私は受けた)人ほど、
この言葉だけは、なぜか、絶対に言えていなかった。

もしかして…
「弱い犬ほどよく吠える」(たぶん、ことわざ?)は、
「弱い人間ほどよくしゃべった」
という、わたしの周りで起きたことも予言していたのかな?

でも、「無駄なしゃべり」「無駄でないしゃべり」の定義は、
それぞれ、なんなんだろう。

意見を全く発しない人は、全員「強い人」なのかな?
口だけしか動かさない人は、全員「弱い人」だとは思うけど…。

ヒトができて、ことばができて、地球に傷ができた、
これだけは事実だと(わたしは)思う。

人体の不思議展(←ヒトの標本?の展示会みたいなの)に行った時、
赤ちゃんの標本?の前でだけ、強い吐き気を覚えたことも。

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